ようこそ毛呂山へ
外秩父の山々から流れ出た幾本もの小流は山襞を刻みながら東に下って荒川となり、東京湾を介して太平洋にそそぐ。
小流群が削り残した山襞は、外秩父連山と関東平野とが接合する部分で狭山丘陵、比企丘陵を形成する。
越生町、毛呂山町など入間郡、比企郡の町や村々はこの外秩父山系の懐に抱かれた集落である。
緑豊かな豊穣の地には、有史以前の遺跡も多く、中世には交通の要衝として栄えた痕跡も多い。
毛呂山町のシンボル
町の木 “ゆず” 町の鳥 “メジロ” 町の花 “菊”
毛呂山町の地理 | |
位置; |
埼玉県入間郡毛呂山町 (E139.18 N35.56) 埼玉県の西部、首都圏50キロ圏内に位置し、東は外秩父山地、西は関東平野に接合する丘陵地帯の山襞に抱かれた町です。 |
アクセス; |
東武東上線池袋より 60分 坂戸(45分)乗換 東毛呂(15分)下車 JR八高線八王子より60分 毛呂駅下車 (車) 関越道鶴ヶ島ICより 20分 又は 圏央道鶴ヶ島ICより20分 |
町名の由来 | |
毛呂山町の名称は、鎌倉時代に、在地領主であった毛呂氏の名前を冠した毛呂郷(現在の毛呂本郷)から起こりました。 その後毛呂氏は、後北条氏が1590年(天正18年)秀吉の小田原城攻めで滅びた際、配下にあって八王子城の戦いに破れ歴史から姿を消しましたが、毛呂の名は残りました。 そのはるか後世の昭和14年、毛呂村と山根村とが合併して毛呂山の名が誕生したと言うことです。 |
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毛呂山町の歴史(遺跡・史跡) | |
縄文時代; |
★松の外遺跡(西戸) 縄文時代前期(6000年~5000年前)の住居跡、土器などが発掘されました。 ★新田東遺跡()、白綾遺跡() 縄文時代中期(5000年~4000年前)を中心とする住居跡、土器などが発掘されました。 |
弥生時代; | (弥生時代の遺跡はあまりありません) |
古墳時代; |
★矢島遺跡(下川原) 住居跡、土師器、石製紡錘車などが出土しています。 ★西戸古墳群、川角古墳群、大類古墳群 大類古墳群に2基の前方後円墳が確認されている他、合計80基の小円墳(直径5~20m)が確認されています。 |
~平安時代; |
★伴六遺跡(岩井)、まま上遺跡(西大久保)、表B遺跡(下川原) 住居跡、土師器等が発掘され、特に伴六遺跡からは、26戸の住居跡が見つかっています。 |
鎌倉・室町時代; | 鎌倉時代、鎌倉から八王子を経て群馬県藤岡方面に至る、往時の幹線路鎌倉街道上道(かみつみち)が、町の中央を南北に貫いていました。その街道に沿う地域には、館跡、城跡、社寺、板碑、宿場跡、古戦場等の史跡が残されていますが、毛呂山町にも、領主毛呂氏に係る史跡、鎌倉街道跡、苦林野古戦場跡、堂山下遺跡(苦林宿?)、出雲伊波比神社(国宝)など、多くの史跡が往時を偲ばせてくれます。 |
江戸時代; |
豊臣秀吉の命を受け後北条氏に代わり関東の領主となった徳川家康は、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いで反対勢力を下し、1603年(慶長8年)江戸に幕府を開きました。 武蔵の地は、江戸に隣接した政治軍事上重要な地域として、天領または旗本の知行地となり、毛呂山の地は22の村に細分化されました。 検地、年貢による農本体制を整備し「百姓は生かさず殺さず」の厳しい統制を受けて、農作物に余剰の出る年は10年に1年もなかったと言われています。 こんな中、仏教信仰は庶民に浸透し、宿谷地蔵尊、明和の馬頭観音、大類の庚申塚、滝ノ入の猿田彦大神など、その信仰の厚さを今に残す石仏群が多く残っています。 |
毛呂山ゆかりの人物 | |
毛呂季光; (モロスエミツ) |
毛呂氏は京都藤原氏の血筋を引く高貴な武士でしたが、季光の祖父藤原季仲の代、1106年(長治2年)に朝廷から常陸国に流され、一族は東国に下向しました。 その後、武蔵七党の一つであった丹党と婚姻関係を結び、季光の父の代に毛呂郷に土着したと言われています。 高貴な家柄を買われて季光は、頼朝側近の武士として戦乱の世に活躍し、1186年(文治2年)には豊後国の国司に推挙される等、重く用いられました。 1199年(正治元年)頼朝逝去の7年後、1206年(建永元年)季光は逝去しました。 季光の死後、その一族が八王子城の戦いで討たれるまでの約400年間、毛呂氏は在地領主として毛呂の地を統治しました。 |
川村碩布; (カワムラセキフ) |
1750年(寛延3年)~1843年(天保14年) (江戸時代後期の俳人) 造り酒屋に生まれ、長じて俳諧の道をこころざし江戸に出て春秋庵加舎白雄(カヤシラオ 1791年(寛政3年没))の門下に入り、後に八哲に数えられ、1818年(文政元年)には春秋庵を継ぎました。 主な句集は、「しら雄く集」、「布鬼圃」、「春秋稿第八編」などがあります。 |
安藤文澤; (アンドウブンタク) |
1805年(文化2年)~1872年(明治5年) (わが国で最初に種痘を施した蘭方医) 名主の家に生まれ、西洋医学を志し埼玉唯一の蘭方医小室元長(現;都幾川町)に学び江戸四ツ谷で開業します。 1830年(天保元年)には25歳で、鳥羽藩侍医となるなど名声は高く、特に幕府が1858年(安政5年)に種痘所を開設する前に、地域の理解を得るために家族に種痘を施していたと言われています。 |
権田直助; (ゴンダナオスケ) |
1809年(文化6年)~1887年(明治20年) (医者にして幕末の尊王運動家) 医者の家に生まれ、皇朝古医道の復興に力を注ぎ、国学者平田篤胤の門下に入って薬草と日本人の係りを研究し、「神遣方経験抄」3巻の他多数の著書を表しました。 その思想は平田国学(尊王理論)に傾倒し、1867年(慶応3年)、薩長の幕府打倒計画に参加し、明治維新後は新政府にも出仕しました。 晩年は、大山阿夫利神社(神奈川県)の神官として同神社に仕えました。 |
毛呂山町の現況 (平成30年4月現在) | |
人口; | 約 34,800人 |
世帯; | 約 14,800戸 |
歴史資料、人物資料は、次に寄りました。 「常設展示解説図録」 ~山と平野の里 歴史と文化~ (毛呂山町歴史民族史料館編集 平成6年3月31日発行) |
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